古き都、新しきハコ(機材)
 ―奈良巡礼と国際放送機器展―


 東大寺二月堂から夕陽を望む


秋もだいぶ深まった2003年11月17日(月)〜19日(水)の3日間、ふらりと奈良を旅してきました。
奈良に足を向けるのは中学3年の修学旅行以来なので、実に25年ぶりです。新横浜と京都を、わずか2時間で結ぶようになった「のぞみ」に乗りこめば、あまりの速さに眠る間もなく古都の玄関口へ。逆に、京都から奈良に向かうローカル線の中でうとうとしたりしちゃいました。天気に恵まれ、紅葉も見ごろの飛鳥の里を、東大寺、興福寺、法隆寺、中宮寺、法輪寺、法起寺、橘寺、飛鳥寺…と回って来ました。


 
奈良公園名物の鹿。「鹿のフン」なんていうお菓子まで…


 柿喰えば鐘が鳴るなり法隆寺。世界最古の木造建築


 
夢殿への参道を行く小学生軍団。社会見学?


 ご存知夢殿。まるで教科書に出てくるようなアングル


 
夢殿の鬼瓦と甍。光線をイメージした相輪が見事


 田園にそびえる法起寺の三重塔。日本最古らしい


 
斑鳩路で見かけた墓石群。アジアの遺跡のようだ


 二月堂からのながめ。晩秋の澄んだ空に夕陽が映える


今回の旅の第一目的は、春と秋の1ヶ月しか公開しないという法隆寺夢殿救世(ぐぜ)観音を拝観することでした。実はこの救世観音、飛鳥時代に聖徳太子の立ち姿として作られた由緒ある仏像なのですが、長い間、寺の僧侶でさえ見た者がいない、秘仏中の秘仏で、実際、1879年に岡倉天心とフェノロサが、学術調査のためなかば強引に、仏像に巻き付けられた500メートルもの白布を解いた時、法隆寺の僧たちは「寺が崩れる」と恐れて逃げ出した、という逸話が残っているそうです。

なぜ、聖徳太子をモデルにした仏像が、そんなに恐ろしいものとして後世に伝わったのでしょう。それについては、「聖徳太子の死後一世紀近くが過ぎた奈良の都で、絶対的な権力を誇っていた藤原氏四兄弟が、わずか数ヵ月の間に相次いで変死を遂げるという異常事態が起きた。他にも火災や疫病などが重なり、これらを蘇我氏に滅ぼされた聖徳太子一族の祟りと考えた藤原氏は、その霊を鎮めるために夢殿を建て、もう2度と災厄をなさないよう観音像を白布でぐるぐる巻きにし、霊魂とともに封じ込めたのである」という説がまことしやかに伝えられています(梅原猛著「隠された十字架」ほか)。まあとにかく、いろいろといわくありげな救世観音ですが、そういったバックステージなしでも、充分に魅力的な仏像であると、図録などで見て以前から思っていました。全体に、平安期以降の日本的な仏像よりも、仏教が朝鮮半島を経由して異教として入ってきたころの飛鳥仏の方が、その謎めいた表情や全体のフォルムなど、自分の好みには合っているようです。そう、何を隠そうワタクシは、もう20年も前の受験生のころから、仏像のカラーブックスなどを買って日に何度もながめるような「にわか仏像マニア」だったのです。そのわりには、今回まで奈良に来ていなかったというのが何ともお粗末なのですが(その辺がにわかと自負する所以でしょうか)。
この救世観音と法隆寺については、実はまだ因縁があります。私の父がもう40年以上昔に岸田演劇賞を受賞した作品が「法隆寺」といい、主人公はもちろん聖徳太子、夢殿に安置された救世観音が持っている舎利壷に毒が隠されており、その毒を薬と思って飲んだ太子の妃が死んでしまうなど、作品の中で救世観音はかなり重要な役割を担っているのです。


さて、これだけいろいろと前置きが長くなった割には、肝心の救世観音拝観は、ものの3分と立たずに終わりました。別に後がつかえていたわけではありません。夢殿の中が暗すぎて、ほとんどお顔が見えないのです。見えなくても、感じることはできるはずだ、などとブルース・リーなら言うかも知れませんが、私には無理です。見えない仏の顔は、見えないのです。同じく法隆寺の大宝蔵殿でも感じたことですが、いくら文化財保護のためとはいえ、あそこまで照明を抑えるのはいかがなものでしょうか。ディテールは写真で見なさいってことですか。それって、違うと思うんですけど。仏様と心の対話をしたいと思えば、実物と対面し、お顔を拝見しながらというのはごく自然な形ではありませんか。拝観者のために、ギリギリ表情がわかるくらいの明かりを仏像に当てる気配りさえ持てないのなら、初めから一般公開などやめておくべきです(怒)。拝観料稼ぎで公開だけはする、でも実際ほとんど見えない、これでは「坊主丸儲け」どころかサギに近いものがあります(大怒)。


 「見えねえぞ!」と怒り、暴徒と化す拝観者たち


それと対照的だったのが、飛鳥寺釈迦如来像(飛鳥大仏)です。これは、あの鞍作鳥が作ったという日本最古の仏像で、当然国宝指定なのですが、ガラス張りでも金網越しでもなく、手を伸ばせば触れられる形で普通に本堂に安置してあり、しかも写真撮影もOK。「珍しいですね」と寺の方にうかがったら、「うちは昔からです」とのこと。そう、国宝級だから必ず金網越し、写真NGっていう決まりはないんです。他の寺もこれに習って(奈良って)、もう少し、現世の悩める衆生のために配慮してほしいものです。


 1400年前の形を今に伝える飛鳥大仏


最終日は、この飛鳥寺を中心に、よく由来のわからない石造物が点在する飛鳥みちをレンタサイクルで散策し、のどかな晩秋を満喫しました。やっぱ自分には、妙に雅を気取っている京都より、田園風景が広がる奈良の方が性に合ってるなあ、と再認識した旅でした。


 
このチャリで飛鳥を疾走!1日900円、乗り捨てOK


 奈良といえば。あちこち柿の木だらけでした


 
かの有名な高松塚古墳。ちょっと見プラネタリウム


吉備姫王墓内にある謎の猿石。ポーズが変じゃない?


 
蘇我馬子の墓といわれる石舞台古墳。やたらでかい!


 かたや馬子の孫・入鹿の首塚。祖父とはえらい違いや


 
こちらは亀石。猿石の親戚?だいたい、ホントに亀か?


 3年前に発掘された亀形石造物。万葉人は亀がお好き?


 
奈良はのどかでいいなあ、とご機嫌で走っていると…→

 いきなり景観をぶち壊すセメント工場が。何と町長の兄貴が
 経営しているとのこと。それでいいのか?


ここからは旅の記録ではありませんが、少々余談を。
奈良から戻った翌々日の21日(金)、幕張メッセで行なわれている恒例のInter BEE 2003(国際放送機器展)に出かけてきました。今から十年ちょっと前、ソニーブースのナレーション台本の仕事を4年間やっていたので、その当時は毎年会場に出向いていたのですが、最近はとんとご無沙汰でした。今回久しぶりで足を向けたのは、パナソニックのDVX100の新型が発表されるという情報があったためです。DVX100は、いわゆる24P撮影モードを備えたミニDVカメラで、シネライクガンマというトーンと組み合わせることで、かなり映画のフィルムっぽい映像を実現でき、このところプロやハイアマチュアの現場でひんぱんに使われるようになっている注目機なのです。私はまだ使ってみたことはないのですが、いつもポストプロでお世話になっている三本木久城さんは、深川栄洋監督や斎藤玲子監督作品などで最近よくこのカメラを使っているとのこと。彼はもともとソニーの同ランク機種PD150を自己所有しており、最初は完全なPD派だったのですが、使っていくうちかなりDVXにもなじんできたそうです。そう感じているカメラマンが多いとしたら、ソニーもおちおちしてられません。かの名器VX1000、VX2000で、ミニDVの一時代を築いたソニーですが、ここに来てパナの追い上げの迫力を感じます。パナに対抗すべく、ソニーもPD170という新機種を発表しましたが、実際会場で触ってみたところ、ほとんどPD150と変わった印象はなく(24Pも採用されていないし…)、正直「あれ?」という感じでした。でも、抜きつ抜かれつは企業間競争の宿命。ソニーも数年のうちにまた、ひと勝負打って出ることでしょう。


 パナとソニーのDV対決、果たして軍配は?


ソニーとパナソニックのブースは、さすが業界の両雄というだけあって昔と変わらず、それなりにきらびやかなデモも交え来場者の目を引いていましたが、それ以外は全体に、私が来ていたころよりも地味に、シンプルになったように見えました。まあ、あのころはバブルの絶頂期で、日本全体が株と土地転がしで浮かれてた時代ですから、すべてが無駄に派手だっただけかも知れません。


 
映像音響関連300社がブースを構える @幕張メッセ  ステージのモデルたちを取り囲む業務用カメラ群


さあ、もうそろそろ帰ろうかなと思いつつ、会場をうろうろしていると、不意に私のコートの袖を引っ張る人がいます。驚いて振り向くと、


 ゆで卵みたいなおでこがキュートなこの子は…


「あれれ」かつての私の助監督で、今は某制作会社で録音助手として働いている井上久美子ちゃんじゃありませんか。彼女は会社の先輩と、オーディオブースを中心に回っていたとのこと。いやあ、こんなところで出会うなんて、と向こうはびっくりしてましたが、何だか私はこの日、誰か知り合いに会うような気がしていたのです。だから、全然驚きはありませんでした。

この井上久美子の経歴というのも短いながらかなり波乱に富んでまして、NCW7期在籍中(&女子大在学中)の2000年に、「自転車とハイヒール」(深川栄洋)に制作助手として参加したのを皮切りに、私の「湿った指」(OV)、「とらばいゆ」(大谷健太郎)、「百合祭」(浜野佐知)、再び私の「チョコチップ漂流記」(OV)、そして何本かのピンク映画の助監督を経て、「blue」(安藤尋)あたりから録音部にシフトし、昨年会社勤務の録音助手に落ち着いたというわけです。最近では、会社から派遣される形でふたたび深川組の現場に入ったり、敬愛する翔ちゃん(哀川翔)のVシネもやったと言ってました。まだ24歳で、ずいぶんいろんな現場を経験したようです。以前助監督をやってもらってた時から「演出っていうのは感性に頼る部分が多いし、きちんと学習するものと違いますよね。自分には、どっちかっていうと一から学習して、知識や経験を積み重ねていくポジションのが向いてる気がします」と語っていた彼女は、その言葉通り、知識と経験が物を言う技術パートに身を置いて映画人の道を歩んでいます。学生の時からしっかりしてたけど、やっぱり地に足がついてるなあと改めて感心しました。
でも、そう言いつつ実は彼女にも自分の監督作品があるのです。「手帳でゴー」(2001年/DV/12分)という、すでに関西のブロードバンドコンテストなどで受賞歴もあるなかなか完成度の高い短編で、それが今回群馬の伊参スタジオ映画祭で招待上映されることになり、翌日(22日)から、主演の藤原ヨシコ嬢(今や懐かしき「2000年のひとり寝」のヒロイン)やいまくりの今西祐子さんら総勢女6人でレンタカーを借りて出かけるとのこと。伊参では温泉宿に泊まるというし、まさに女だらけの温泉旅行です。いいなあ。彼女たちによろしくねえ、と手を振って別れました。

※伊参スタジオ映画祭での上映トークの模様はこちら!


 
「手帳でゴー」は、手帳に余白だらけのヒマな女の子が
見出した密かな楽しみを描いた快作。
 現場中のスナップ。何と、「チョコチップ漂流記」のヒロイン
 杉浦育美(右)も出演。パーソナルEROSつながりなのだ


まだ学生だった井上さんを助監督に任命して、初冬の佐渡まで「湿った指」のロケに出かけたのが、早いもので3年前。ついこの間のように思うのですが、その間に彼女はしっかり経験を重ねて大人になっていました。また、幕張メッセの会場内狭しと展示してあった機材にしても、3年前には市場になかったものばかりです。たった3年ですっかり様子が変わってしまうこの浮世と、1000年以上前の趣を今に伝える古き都と。そのギャップの大きさに、軽い目まいを覚えるのでした。
(2003/11/30記 「月末備忘録」用に書き下ろしたものを一部修正)


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