火星のわが家 年代記

  TEXT BY TAKU OSHIMA
「火星のわが家」は「カナカナ」に続く私の劇場用映画で、企画立ち上げから公開まで、足かけ5年の歳月を要した。

一番初めにこの作品の着想を得たのは1996年の8月、火星から落下した隕石に生物の痕跡があったという報道がきっかけだった。火星といえば……と、その時私の心に蘇ったのが、かつて亡父が1000円で<日本宇宙旅行協会>から買ったと聞かされていた火星の土地の権利証だった。宇宙開発ブーム華やかなりし四十数年前に、多数の著名人もその権利証を購入し、ちょっとした火星ブームが起こっていたらしいのである。まだ人類が月にも行っていないころの話だからまさに大人のジョークなのだが、人々の宇宙時代への憧れを象徴したエピソードのように思えた。そして今、21世紀は目前というのに人の心はすっかり潤いを失っている。「火星のマイホーム」をキーワードに、もう一度あのころの前向きな気持ちを取り戻せないだろうか。それがそもそもの出発点だった。

「一人で暮らしていた初老の父が脳梗塞で倒れ、あまり仲のよくなかった娘がやむを得ずその介護に当たる。やがてかなり病気の進んだ父が、ある日火星探査機打ち上げのニュースを見て、『自分は火星に土地を持っていたんだ!』と騒ぎ出す。しかし娘はそんな現実離れした話を信じることができない。そのうち娘は介護疲れで体調を崩し父を施設に預け、そこで父は危篤に陥る。死の直前、娘は自分が大切にしていたピアノの中から火星の権利証を発見、家庭を顧みなかった父が、実は火星のスイートホームに夢を馳せていたことを知る。そして父は権利証を手に昇天していく……」

これが97年の夏から秋にかけて執筆した準備稿のあらすじである。これだけ読むと、完成した作品よりドラマチックで面白そうにも思えるのだが、このシナリオは、私の父が病に倒れた時の体験がベースになっており、そのころの私のやり切れない思いがかなりストレートに吐露されていた。このままいけば暗く救いのない作品になる恐れがある。そんなことを考えていた折、香港映画の「女人、四十」を見て、老いた父親の介護に当たる家族たちの姿が実に軽妙に、たくましく描かれていることに衝撃を受けた。同時に、介護を陰惨なものとして捉えるのはもはや時代錯誤であると思い知らされ、それまで積み上げてきたものをすべて白紙に戻す必要を痛感したのだった。

ちょうどそのころ、火星の土地分譲を手がけた宇宙旅行協会のその後の消息についても調査を進めていたのだが、会の中心人物だった原田三夫という科学ジャーナリストの蔵書や資料が、千葉県の大原文化センターに収蔵されていることがわかった。早速そこに赴いて、原田が編集長を務めた科学雑誌や自伝を読み進めるうち、後の博学多才ぶりとパイタリティ、既成概念に捕らわれない柔軟かつ自由な生き方にすっかり心酔してしまった。東大出のエリートでありながら宮仕えを嫌い、貧乏文化人として一生を終えたその姿が、私の父とだぶって見えたせいもあるだろう。しかも彼は87歳で没する直前まで旺盛な執筆活動を行なっている。人間こうでなくては! と、この時点で作品中の父親のイメージが大きく変わった。父親は倒れても前向きに生きることを忘れない男に、そして、土地を買った「その他大勢」なんかではなく火星の分譲主にしてみよう。日下武史氏演ずる康平の奔放なキャラクターはこうして固まっていったのである。


 往年の原田三夫。協会発行のパンフ「火星案内」より


またそのころ母方の祖父母が、ともに九十すぎという高齢で相次いで亡くなったのだが、母はその数年前から、一週間おきに実家に様子を見に行くようになっていた。祖父母はその訪問を心待ちにしていた風だったが、同じ敷地に住む姉夫婦の日には要らぬ気遣いと映ったようで、次第に互いの確執が深くなっていくのは離れて暮らしているこちらにも伝わってきた。親の介護をめぐる姉と妹の対立という構図は、このあたりからヒントをもらっている。
この他にも、脳梗塞のご主人を数年間介護されていた奥様や理学療法士の方、自らも脳梗塞で倒れながら現場に復帰を果たしたという七十代の内科医の方などにお会いしていろいろなお話をうかがった。最近では梗塞を起こしても寝たきりや痴呆になるとは限らず、早期のリハビリでかなりの回復が期待できるのだという。
父が倒れた二十年前と比べると、医療も介護もずいぶん進歩したのだなあ、という感慨とともに、ようやく作品の方向性は定まりつつあった。

もうひとつ幸運だったのは、決定稿を執筆した98年5月には主要キャスト4人がほほ決まっており、彼らの顔を思い浮かべながら脚本を書き進められたことだろう。特に未知子役の鈴木重子さんに関しては、歌手が本業で演技は初めてということもあり、ディスカッションを重ねて、人物設定や性格、セリフ回しに至るまでなるべく本人の生の姿に合わせた。ナイーヴさゆえに歌えなくなってしまうというエピソードも、実は彼女自身そういう状態に陥りかけたことがあると聞かされ、取り入れたものである。

撮影は98年8月、ほぼ一ヶ月を費やして行なわれた。現場のエピソードを語り出せばきりがないが、ひとつだけ書きとめておきたいのは作品の舞台となった神山家のことで、この一風変わった趣の住宅は横浜にある作家の城井友治氏宅を、ほとんど手を加えずそのままお借りした。ご夫妻が実際に暮らしておられる憩いの場に、15人を越すロケ隊が連日押しかけて撮影を続けたのだから、住んでいる方はたまったものではなかったと思うが、築三十年という生活の重みは、セットでは到底望めない現実感を画面に与えてくれ、またそこに通う出演者たちも日増しに本物の住人のようになっていった。俳優として半世紀近いキャリアを持つ日下氏が撮影終了直後、「ポクはこの現場で、生まれて初めて、生活をしながら仕事をしたよ」とつぶやいていたのが忘れられない。

そんな思い出深き城井宅も、まるで映画の公開を待っていたかのようにこの2月から取り壊しが始まる。作品のラストシーン同様、われわれもまた遥かなる火星の方を見やりつつ、あの家を思い出すことになるのだろう。


 今は無き城井邸をバックに記念撮影



(この文章は「月刊シナリオ」2000年3月号に掲載されたものを一部修正の上転載しました)

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