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ライブは楽し (5月)


最近、「ライブ」に行くことが多い。私の定義では、ライブとは、演じ手が観客の目の前で直接行なう「生の」表現活動すべてを指す。したがって音楽も演劇も古典芸能も、ということになるのだが、ここ数年は、映画を観に劇場に行くよりも、音楽や演劇といった「ライブ」に出かける回数の方が多くなっている。
ライブの楽しみは、何と言っても演じ手と直接出会え、その場を共有できるということだろう。同じ時間、同じ空間の中で演じ手と観客はともに生きているのだ。それはまさに一期一会というにふさわしく、当然、何かハプニングが起こった時には、両者はそのハプニングも共有することになる。

ちなみについ先日、耐震強度の偽装とともに、頭髪の偽装も大いに注目されていた元一級建築士が逮捕されたが、車で移送される際のその頭のまぶしさに驚いた人も多いだろう。ブログ検索をかけてみると、「姉〇」「丸坊主」のキーワードで何百件も出てきたのには苦笑した。世間の人は事件そのものと同じくらい、「あの人はヅラだったのかどうか」という問題に関心がおありのようだ(私もだが)。
おいおい、いきなり話が違うじゃん! と突っ込まれそうだが、実は、以前見た芝居の中に、まさにあのようなキャラクターが登場したのである。永井愛作・演出による「空の耳」という作品で、いかにも不自然な髪型をした紳士(演じるは吉田鋼太郎)のカツラが、話の後半、他の男と取っ組み合いになったはずみに脱げ、丸ッぱげが暴かれる、という展開だった。しかし、その当時、演じる吉田の髪はふさふさだったため、彼は自分の頭髪の上にまずハゲヅラを、そしてその上に、不自然な髪型のヅラをかぶり、取っ組み合いの際には不自然な方だけが脱げてハゲヅラを露出させたかったのだが、共演者の引っ張りどころが悪く、2つのカツラが同時に脱げてしまったのである。これには会場全体が凍りついた。舞台上の俳優たちは、あきらかに、「あちゃー」という表情。われわれ観客側は、どういうことかはわからないが、何か不測の事態が起こったというのはすぐに感じられた。
2つのヅラを同時に取られた吉田は、頭を抱えたまましばらくうずくまっていたが、やがて意を決したようにそばに落ちていたハゲヅラを手に取り、「これが取れては…(ダメなんだよ)」などと言いつつ頭にのせる。それを見て、観客も事態を了解、客席からは「今のは見なかったことにするからがんばってね!」という意味合いの大きな拍手がわき起こった。吉田も「よし」とうなずき、演技は続行。そのあとの流れにも大きな乱れはなく、芝居は無事に幕を閉じた。この瞬間など、演じ手と観客の間の共犯関係のような物を強く感じたものである(ちなみにこの「空の耳」は大変面白かったので、数日後、友人を誘ってもう一度観に行っている。その時には、ヘアピンか何かで補強したのか、ヅラが脱げる場面はハプニングなく進行していた)。
また、おととしの秋、あの中越地震が起きた時には、ちょうど劇団四季の自由劇場で「ヴェニスの商人」を見ていたのだが、上演中、天井から釣ってある照明機材がかなり大きく揺れ、観客席からは「大丈夫なのか」というようなどよめきがもれた。舞台上の俳優たちもあきらかに動揺している様子で、これが最近の軽演劇だったら、「おいおい、平気なのか、この揺れ」「逃げた方がいいんじゃない?」などとアドリブでもかましたことだろう。幸いこの時も、芝居の進行に支障はなかったが、俳優たちの緊迫した表情は、観客と演じ手が同じ「場」にいるのだということを再認識させてくれた。極端にいえば、地震のために劇場が倒壊した場合、俳優も観客も同じように被害者になりうる。そういう意味で、両者は運命共同体でもある、ということだ。


  劇団四季・自由劇場入り口にて(2004/10/23)


これが映像作品だと、事情はまったく違う。映画を見ている最中に大地震が起きても死傷するのは観客と劇場のスタッフだけで、出演者にはまるで関係がない(まあ、これが公開初日で舞台挨拶でもあれば別だが…)。そこら辺が、どうにも物足りなく感じられるのである。少し前の話だが、劇場版「ウルトラマンコスモス」か何かの宣伝で、杉浦太陽と吹石一恵が昼のバラエティ番組に出ていたことがあった。司会者は2人に、撮影時のエピソードや互いの印象などを質問したのだが、ふたりとも「いやあ、出番は別々なんで、現場ではお会いしてないんですよねえ」とのこと。ドッチラケであった。このように、映画やテレビの場合は、俳優と観客が別次元にいるばかりか、俳優同士でさえ、共演者として名前が並んでいたとしても出演場面は別々で、実際には一度も顔を合わせていない、なんてことがザラにあるのである。また最近では、上戸彩とゴルファーのミシェル・ウィーが出ているオロナミンCのCFのように、同一画面に写っていても実は合成なんていうのも増えてきているし、そういう話を聞くと、何かだまされたような気になってくる。全員が必ずそこに揃っていなければ成り立たないガチンコ勝負のライブとは違い、映像はいろんな段階で調整が可能な、ごまかし満載の表現手段なのだ。

もちろん、映像にもライブにはないすぐれた点がある。たとえば、現実に存在するものは人も物もすべて経年変化していくが、映像に焼き付けられたものは何十年経ってもその時の姿で観返せるとか、場所を選ばずに観られるとか…。私もどちらかといえば映像を作っている側の人間なので、その辺の利点はよくわかっているのだが、逆に自分がやっていない分、ライブ寄りの活動をしている人に羨望と好奇の眼差しを注いでしまうのかも知れない。

と言いつつ、先週末も知り合いがらみのライブに2本行ってきた。ひとつ目は4月22日(土)のコヤマナオコさんの1stアルバム発売記念ワンマン『君色フープ』。その中の1曲「ライムライト」は7月公開の「いくつもの、ひとりの朝」の主題歌になっている。お祭りモード全開で、バラード系のみならずアップテンポ曲も充実の楽しいひとときだった。


  舞台中央の白い発光体(笑)がコヤマさん


翌23日(日)は、とうじ魔とうじ氏主宰の都電貸切りライブ。出演は石川浩司ライオン・メリィエーツー上野茂都という何だかすごい面々。都電荒川線の車両を貸し切りにして、実際に走行させながらライブをやってしまうという、暴挙というか快挙というか。限定30名で1回きりというのも希少価値高すぎである。詳細はとうじ魔氏のサイトを見ていただくとし、そのライブの後半、車内のボルテージがあがりすぎたため(?)か、突然列車が停電、走行がストップした。一瞬車内を緊張が走る。幸い数分で復旧し、ライブはその後も無事続けられたが、このハプニング性と、そして、何かが起きた時には演じ手と観客が共にそれに巻き込まれてしまう、有無を言わさぬ「一体感」こそ、ライブの最大の魅力だと思う。

 都電型の紙袋、中はエーツーお手製のクッキー(美味)

 車内をうろつく怪しいおじさん、ではなく石川浩司氏

 熱唱するエーツー。ブルボン菓子の歌は必聴!

 いつもながらタテガミが麗しいライオン・メリィ氏


ちなみに、ゴールデンウィークの後半には劇団四季の「鹿鳴館」を、6月には永井愛の「やわらかい服を着て」を観に行く予定。どちらも楽しみである。ちなみに先月は文学座アトリエ公演の「エスペラント」も観たが、これもよくできていた。では、どちらさまもよい連休を…。
(2006/05/01)

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