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折り返しを過ぎて


※以下の文章は、2月16日の「凍える鏡 製作日記」に書いたものの全文です。一度はあちらにアップしたのですが、もろもろの事情により、個人サイトであるこのページで公開します。



「凍える鏡」は公開3週目も終わり、今日から4週目に突入。東京での公開は2月29日までなので、早いもので、折り返しを過ぎたことになる。

ネットのブログや、劇場窓口に届けられたお手紙などで、作品の感想に触れる機会も増えてきた。こちらもびっくりするくらい高く評価していただいているものもあれば、辛口のご意見もあり、まさに人の受け取り方はさまざまである。そういう感想を読みながらしきりと頭をよぎるのは、今回の作品のテーマにもなっている「創作者は何のために物を作るのか?」という問いかけである。

主人公の瞬は、母親から無条件に愛されたことがない。唯一ほめてもらえたのが、彼の描いた絵だった。その体験を今も引きずる瞬は、絵を人に評価されることのみに執念を燃やす。それだけが、彼の有能さを証明してくれるからだ。言い換えれば、絵を描いている時の自分は素晴らしいが、そうでない自分は無能で、生きている価値がない。このように、彼の自己評価はつねに揺れ動き、ありのままの自分を愛しく思うことができないのだ。

そんな瞬に対して、臨床心理士の由里子は言う。「あなたは何のために絵を描いているの? 他人から絶賛されたいから? それとも絵を描くことが好きだから? あなたにとって大事なのは、あなた自身のために絵を描き続けることでしょう。他人が評価するしないは、そのあとの問題じゃないのかな?」と。

由里子の言っていることは多分正しい。まるで校長先生の訓話のように正論である。しかし、そういう由里子も、自分のスキルアップのために、症例報告を本にして出すことを画策しており、出版社のおえらいさんに自分の原稿をほめてもらった時など、それこそ満面の笑みで喜んでいる。彼女もまた、他人の評価によって自分の価値を確認するあわれな存在なのである。

創作者を名乗る人間は、一体何のためにそれを作るのか。「生きていることの確認」「有限な自分の存在を永遠なものにするため」「苦しみからの逃避」「生のさらなる充実のため」…多分いろいろな答えが返ってくるだろう。しかし、私も物作りのはしくれとして思うのだが、一番の理由は、おそらく、「自分がここに存在しているということを誰かに知らしめるため」ではないだろうか。物を作る人間の自我というのは実はそれくらい脆弱で、誰か他人の目というフィルターを通さなくては、自分の存在をしっかり確認することができないのだ。

だから由里子が、「他人の評価など気にせず、あなた自身のために絵を描くべきだ」と言うのは、正論である一方、実は作り手の心のありようを理解していない的外れな言葉でもある。それがたやすくできるなら、誰も苦労はしないのだ。

「他人の評価は気まぐれだし、そんなものに一喜一憂するのは馬鹿げている」「あなた自身の本当の価値を知っているのはあなただけだ」「人生を楽しむために特別な才能はいらない」…等々、認知療法系の本をめくると、もっともらしい言葉が次々目に飛び込んでくる。では、そういうゴタクを並べている療法家の先生たちは、ご自分の本の売り上げがまったく気にならないのか。たとえ1冊も売れなかったとしても、「この本の値打ちに変わりはない」と、平然と言い切れるのだろうか?

長々と書いてしまったが、かくいう私自身、思春期以降30年以上の長きに渡り、評価至上主義に翻弄され続け、心身ともにくたびれ果ててしまったのである。もうこの辺でそういったものから解放されたいと考え、今回、「評価」との訣別宣言の意味を込めてこの「凍える鏡」を製作したのだ。だからあのラストには、私の内なる願望がかなり強く現われていると思う。

とにかく映画は、難産ではあったが無事に完成した。あとは心穏やかに、公開を迎えるだけだ。数週間前まではそう思っていた。しかしいざフタをあけてみると、日々寄せられてくる、さまざまな形の「評価」に無関心でいることはできず、大変に揺れ動く日々を送っているというのが実情である。やはりこの浮世に生きている限り、そこからの超克は難しいのだろうか…。
(2007/02/16)

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