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ある封切り映画のこと


「凍える鏡」の公開も来年1月26日からと決まり、つい先日は一般の方を対象にした試写会が開かれたりと、毎日かなりバタバタしているのだが、そんな時間の合間を縫って、ある封切り映画を公開初日に観てきた。

全体尺100分ほどのその作品には、2人しか人物が登場しない。そして驚くべきことに、最初の10分弱ほどのインタビューシーン以外、セリフがひとつもない。無声映画ではないのだが、聞こえるのは、食べる音、ドアを開ける音、コンビニの袋がこすれる音、といった生活音だけ。そして映像の方も、食べる、働く、風呂に入る、本を読む、車を運転する、といった日常の単調な場面がえんえんと1時間以上続いていく。その、終わりなきルーティンワークの中で、何かが少しずつ変わり、2人の人間の距離がわずかながら接近していく兆し(と言っていいのか?)を見せて、物語は唐突に終わる。とにかく、これほどまでに会話を拒絶した映画というのはドラマとしてはかなり異色だし、セリフが全体の中でかなりのウェートを占める私なんかの作品とは、完全に対極にあるといっていい。それにしても、ここまで言葉をそぎ落として、作り手の伝えようとしていることが果たしてきちんと伝わるものなのか。しかしおそらく監督は確信犯でやっているのだろう。物語の概略は、最初のインタビューで情報として伝えておいて、あとはただ、登場人物たちと日常を共有して欲しい、そこから何かを体感して欲しいという考えなのだろう。ミニマルミュージックのようだと評した人もいたようだが、かなり好みのわかれる作品だと思う。正直私は、こういう「あとはおまかせ」的な作品に感情移入することはほとんどできなかった。作家はもう少し自覚的に、ドラマを構築し展開させていく使命を帯びているのではないか。観客に想像の余地を残しておくのは賛成だが、この作品は、その9割以上を観客に委ねており、そういう丸投げは作り手としての責任放棄のように思われるのだが…。しかし、今述べたのは、あくまで私の考える劇映画の概念でしかない。現実に、こうした挑発的な作り方の映画が存在するいうことを教えられたのは、少なからず収穫であった。

なお、この作品に登場する人物2人のうち、片方は監督自らが演じている(役者を使うより、自分がやった方がシナリオのイメージとのギャップが少ない、というのが理由のようだが、これもかなりの英断と言うべきだろう)。したがって、撮影に参加した俳優はたった1名。スタッフもわずか9人で、撮影期間は11日、準備期間は1週間だという。これまでも何度かロケで世話になった地方の旅館を借りて、そこに泊まりながらの撮影だったらしい。こうした、構成的にはミニマルで、そして現場体制的には限りなくミニマムな手作り映画が、とある国際映画祭でグランプリを取ったというのだから、映画は予算や規模ではなく、アイデアと志(こころざし)ということになるのだろうか。

私とは明らかにアプローチが異なる映画ではあったが、極限に近い予算的、時間的制約の中で、作家としての姿勢を貫いた監督には、素直に敬意を表したいと思う。タイトルはあえて書かないが、新宿と中野の間にある映画館で上映されているから、ご興味のある方は、なるべく前の晩はぐっすり寝てご覧になることをお勧めしたい(でないと爆睡間違いなし)。
(2007/12/03)

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