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心は見えないものだから


最近気になったマスコミネタと言えば横綱のモンゴル帰国問題と、国分寺で起きたストーカー警官の一般人射殺事件。私のコラムではあまり時事ネタは扱わないようにしているのだが、今回はどうしてもこの2つが頭から離れないので、私見を交えて少し綴ってみたい。

まず、横綱の帰国問題。何でいつまでもいつまでもテレビのワイドショーはこのネタを取り上げるのかと思うくらいしつこいが、私が一番気になったのは、謹慎処分を受けたとたん精神を病んだ(???????)といわれる横綱の診断名である。最初が「神経衰弱でうつ病の一歩手前」で次が「ストレス性障害」、そして最後が「解離性障害」。どれもピンと来ないし、あんな短時間のやっつけ診察で本当に診断が可能だったのだろうか。シロウト目には、大きなわがまま坊主が、思いがけないお目玉を喰って、それですねているようにか見えないのだが。そういう「ふてくされ」までが「心の病」といわれ、治療の対象になってしまうのは、ひとえに「心は見えない」からなのだが、こうまで診断名がころころ変わると、精神科医と言われる人の診断が本当に適切なのか、首をかしげたくなってくる。たしかに、現代は心を病む人が増え、病名も多岐に渡っているのかも知れない。しかし、よくよく診察もせず安易に「ナントカ障害」などといかがわしい病名をつけ、それですべてが免責されるような流れを作ってしまっていいのか? 最近は被災地でも学校でも職場でも、何かあるとすぐにカウンセラーを派遣して、適切な心のケアを、などと言うのが大流行で「心の専門家」が大層重宝されているが(今は亡き元文化庁長官の大先生も大喜びであろう)、そういう、何でもかんでも原因を心の問題に直結させて治療の対象に、っていう最近の風潮はちょっとおかしいんじゃないだろうか。たしかに、適切な治療が必要な、いわゆる精神疾患があるのは認める。「統合失調症」と「大うつ病」については、自然な状態での治癒は難しいだろう。しかしそういった重篤な症例と、「謹慎を喰らったからふてくされて引きこもり」なんていうわがまま病を同列に論じていいのだろうか? それこそ、深刻な精神疾患で苦しんでいる人に対して失礼だし、迷惑である。どうも最近は、あの横綱と似たりよったりの、ゴネ得みたいな自称「うつ病」を身近でも見ることが多く、そういう人には、もう少し「心を鍛えなさい」と言いたくなる(でも、そういうことを言うと、「下手に叱咤激励して自殺でもされたらどうする!」なんて言われちゃうんだよね。うかつに励ますこともできない今の世の中。かくて怠け病は国民病に。いやはや)。
とにかく、この8月の横綱篭城騒動は、「ゴネれば要求は通る」「具合が悪くなったらナントカ障害で休養」というご都合主義を日本国民にたっぷりと見せつけた。これ以上この国にサボリを奨励する空気が拡がっては、それこそ百害あって一利なし。夏休みの終わりとともに、この話題は幕引きにしてもらいたいものである。

さて、もうひとつのストーカー警官。こちらは、上の横綱問題とは対照的に、意外なほどマスコミが大騒ぎをしていない。市民を守るはずの警察官が、知人女性を執拗にストーキングし、そのあげく拳銃で撃ち殺し自殺するというまさにモラルハザードの極みみたいな事件なのに、新聞もテレビも雑誌も、どういうわけか取り上げ方がおとなしい。センセーショナルな記事は得意なはずの週刊新潮や週刊文春なんかも、「パパ」や「姫」の醜聞にばかり力を入れて、この事件は、「一応取り上げました」程度の記事しか載せていない。まさか警察から圧力がかかったわけでもないだろうから、いわゆる横並びの自主規制なのだろうか。また、それと同時に、警視総監あたりがきちんと国民に対して謝罪会見を開かないのも納得できない(コメントは発表しているようだが)。警官や教師などのいわゆる「聖職者」(死語?)が、おかしな事件をおこすのが当たり前の世の中になりつつあり、誰も大騒ぎしなくなっているのだとしたら、それこそ末法の世である。
ただ、この警官については、その行為はもちろん言語道断であるのだが、彼のこれまでの境遇や被害者女性との関わり方などを見ていくと、一抹の同情を禁じなくもない。小さいころからあまりパッとせず、40歳で両親と同居。いわゆる「もてない男」であった者の悲劇といえばそれまでだが、両親もどうにか結婚をさせたい、と願っていたようであり、本人としても、切実なものがあったのだろう。しかし、今や女は不自由な結婚なんかよりも自由なひとり身を選ぶ時代である。さえない男には結婚はなかなかハードルが高いのが厳然たる事実だ。ここら辺は、同じ世代の人間としてかなり身につまされるものがある。
「もてない男」といえば文芸評論家の小谷野敦にそういう題名の本があり(1999年・ちくま新書)、彼はその本の中で、現代において「もてないこと」がどれほどの苦痛を伴うか、そのやるせなさをみずからの経験をベースに吐露していたが、その後、結婚したという話が報道され、「もてない男がもてていた!」と一部で話題になった。しかし、遠距離だったというその結婚生活はわずか数年で破綻し、彼は「帰ってきたもてない男」(2005年・ちくま新書)という本を出すにいたる。2冊の本を読んで、「もてない男」が「もてないこと」を卒業するのはなかなか難しいということを感じたし、また、「もてない」ネタで何冊も本を出すくらい、「もてない」というのは精神的に苦痛であることがよくわかる。
その小谷野が本の中で述べていた主張で、なるほどそのとおりと思ったのは、以下の文である。

「恋愛は誰にでもできる、という『嘘』が、恋愛のできない者を焦慮に追いたて、ストーカーを生むのである。だから、恋愛を礼賛する者たちに、ストーカーを非難する資格はない」

しごくもっともである。今日ではテレビドラマでも映画でも小説でも雑誌でも歌謡曲でも、とにかくありとあらゆるものに何かしら恋愛の要素が入っており、現代で恋愛ができないのはそれこそ人間失格のようなご時世である。しかし、実際のところ恋愛というのは、かなり高級な人間関係の構築作業であり、当然、スキルが必要だし得意不得意もある。誰でも簡単にできるものではないのである。だから昔は見合い結婚が多かったのだろう。小谷野も、そうした視点で、恋愛なんかしなくても生きていける、と、えんえん「もてない男=恋愛的弱者」擁護論を展開するのだが、先日単行本が発売になった小谷野の告白的小説「非望」(2007年・幻冬舎)によると、彼は大学院時代にある女性を好きになってその気持ちを抑えられず、相手がカナダに留学すると自分もそのあとを追って留学したり、いくら拒絶されてもラブレターを送り続けたりと、明らかにストーカー状態だったらしい。文弱のはずの彼にそれほどの情熱と行動力があったとはちょっと驚いたが、相手もさぞ迷惑だったに違いない。先にあげた、ある種ストーカー擁護とも取れる小谷野の文章は、そういう彼の実体験を重ねると、一層の切実さを伴って見える。

国分寺の射殺警官から話がずれたようだが、要するにそのくらい、「もてない男」にとって、恋愛の成就は切実な願望であるということだ。相手の迷惑を考えず、一方的な思い込みだけで行動するストーカーが非難されるのは当然かも知れない。しかし国分寺の事件の場合、被害女性は専業ではないもののキャバレー勤務という夜の仕事をしており、警官からつきまとわれることに対して拒絶するメールを送る一方、「営業用」の親しげなメールも送っていたという。個人的には会いたくないが、店には来てほしいからそういうメールを打つのだろうが、恋愛に免疫のない「もてない男」にとっては、これは混乱するのではないか。「水商売の女に本気になるとはおとなげない、あれは惚れさせて貢がせる商売なのだから、嘘を嘘と知りつつ楽しむものだ」などと言う人もいるだろうが、いくら40歳でも、それまで恋愛の経験も出会いのチャンスもなかったのだから、「営業」と「本音」の区別がつかなくても無理はない。もしかしたら好かれているのかも知れない、好きになってくれるかも知れないという一縷の望みをかけて、あの警官は突っ走ってしまったのではないか。被害女性も、あそこまでつきまといが執拗であったのなら、営業であってもメールは一切打たないとか、あるいはもっと早く店を辞めるとか、引っ越すとか、自分の身を守る方法はあったように思う。恋愛とは、しなくても生きていけるものかも知れないが、ある種人間の尊厳とも関わってくる要件であり、誰にとっても無視しきれない問題である。したがって、警官だからストーカーにならないという保証はない。しかし、警官というのは日本では拳銃の携帯が許されているほぼ唯一の職業であり、その責任は常に自覚するべきである。最後の最後に、公務のための拳銃を使ってあのように短絡的な行動に出たのは到底許されることではないし、警察は身内びいきをすることなく真相を明らかにする必要がある。ただ、この事件を一人のおとなしく、目立たない「恋愛的弱者」の末路として見た時、いたたまれない悲しさが残るのである。

余談ながら、この警官は事件前にげっそりとやせていたそうで、かなり「神経が衰弱」していた可能性がある。もし上司や同僚が気づいて、それこそ心療内科にでも通わせていたら、あるいは悲劇は防げたかも知れない。一方、例の横綱は、モンゴルへの帰国で空港に姿を見せた時、ほとんどやせていなかったし、伏し目がちにして病気っぽい表情を作っていたものの、足取りもしっかりして、とても「解離」しているようには見えなかった。心の病気でもない者が治療と称してのうのうと里帰りし、もしかして治療が必要だったかも知れない者が野放しにされて事件を起こす。どこまで科学、医学が進歩しても、「心の中は見えない」ものだけに、こうした、どうにもやり切れない出来事はこれからも起こり続けるのだろう。
(2007/09/01)

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