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直筆文化の終焉


今、私は、自分のHPの月イチ更新コラムを書いている。正確に言えば、自宅のパソコンに向かって文字を打ち込んでいる。自分は携帯派ではないので、まとまった文章を打つ時に、携帯を使うことはまずないが、最近は携帯でブログの更新をする人も増えているようだ。いずれにしても、今のわれわれは、そうしたホームページやブログの更新にしろ、メールのやりとりにしろ、学校のレポートや仕事の書類などの作成にしろ、とにかく「文字を記述する」という行為のほとんどを携帯もしくはパソコンのキーを打つことで行なっており、紙に筆記用具で言葉を書く、という機会が驚くほど少なくなっているのではないだろうか。
これがわれわれの親くらいの世代になると、携帯やパソコンをいじれない人たちも少なからず存在するから、そういった人たちは昔ながらの便箋と封筒で手紙を書いたり、書類などもレポート用紙にペン書きで作成したりするだろう。しかし、小学生が学校でPCを教わるご時世では、これからそういった直筆派の割合が増えることは期待できまい。

自分なども最近はめっきりペンや鉛筆を持つことがなくなってしまった。一体いつごろからこの傾向が顕著になったのだろうと思い返したところ、たしか1999年あたりまで、映像作品の台本などは、最初は原稿用紙に鉛筆で書き、その後、ワープロ(PCのワープロソフトではなく、文字どおりのワープロ。ちなみに1988年に購入したキヤノンのピコワードミニという機種)で清書をするというのが、定着したパターンであった。いわゆる20世紀末までは、「創作物は直筆で、原稿用紙に書くもの」という厳粛(?)なこだわりがあったことになる。これは、作家だった父が、毎日毎日、原稿用紙のマス目をひと文字づつ勤勉に埋めていた姿を見て育ったせいもあるだろう。

しかしその厳粛さも、2000年あたりからあやしくなってくる。その年の暮れに製作したある作品の台本執筆の際、初めて、直接ワープロでの執筆を試みたのである。製作決定から撮影まで数週間しかなく、数日で70分の台本を打たなくてはならず、手書き→清書という時間が取れそうもなかったからだ。しかし、やればできるもので、その直接入力方式で、シナリオは3日ほどで出来上がった。それ以降、台本執筆はまず原稿用紙で、という掟は破られ、2003年以降は、パソコンを本格的に導入し、ワープロソフトでの執筆を始めたこともあり、今ではいきなりパソコンに向かうのが当たり前のようになってしまった。ところで、原稿用紙に書くのと、キーボードで打つのとでは、作品の展開やセリフなども変わってくるのか? 具体的な比較をしたことはないのでなんとも言えないが、おそらく書いている時の脳の働きにも違いは出てくると思うし、気分的には、原稿用紙の方が「作家的な営みをしている」という自覚が高まるのは事実だと思う。パソコンはあまりに日常の道具で、情緒に欠ける向きがある。と言いつつ、最近ではその日常の道具の方が気安く操れる、ということで、原稿用紙は引き出しの奥に眠ったまま何年も出番がない。内心忸怩(じくじ)たる思いである。

それとともに、日常においてもメールでのやりとりや、エクセル、ワードを使った書類の作成の機会も増え、年賀状までPCで印刷するようになり、もはや紙とペンで何かを書く、という行為は、生活の中からほとんど失われてしまった(現在細々とつけている日記はいわゆる日記帳なので手書きだが、それさえ滞りがちなのが現実である)。



近所で見つけたセミの脱皮(本文の内容とは関係ありません)


このような傾向は、多分、私ひとりの身に起こっていることではなく、社会全般の流れであると言っていいだろう。ここ10年ほど、NCWという映像製作の学校で若い人のシナリオや企画書を読ませてもらっているが、最初のころは手書きとワープロ打ちが半分ずつくらいだった。当然、字の汚い輩も少なからずいて、読むのにかなり苦労した記憶がある。しかし現在では9割がたがワープロ打ちで、手書きはごくごく少数、当然のことながら、字が読みにくくて難儀するということはなくなった(文章として読み辛いものはもちろんあるが)。これはかなり急速な技術変革ではないだろうか。

こうして今まさに「直筆文化」は終焉を迎えようとしているわけだが、この終焉がもたらすであろういくつかのことが頭をよぎる。まずひとつめは、かなりシンプルなことだが、ここまで文字を書かなくなると、どうしたって文字は上手くはならない、下手になる一方である、ということだ。ラマルクの用不用説ではないが、使わない器官が衰えるのは当然のことなのである。自分にしても、最近たまに手紙を書いたりすると、その下手っぷりにはため息しか出ない。平安時代の空海や小野道風の達筆を例に出すまでもなく、美しい文字というのは、太古以来日本人の教養のひとつだったはずなのに、時代というのは変われば変わるものである。しかし、もはやこの流れを止めるのは難しいだろう。

次に、直筆と違いワープロの文字は、本当にその当人が書いたかどうかわからない、したがって、学生の論文にしろ企業のレポートにしろ、盗用が容易にできるようになるということである。もちろん、盗用は書き写してもできるが、PCの場合はいわゆるコピー&ペーストが一瞬のキーボード操作で完了してしまうわけで、そうすると、他人の文章を一字一字書き写すのに比べ、文章を盗んでいるという後ろめたさがかなり薄くなるのではないだろうか。実際、PCの普及とともに「盗用」と「引用」の線引きはかなり難しくなっていて、あちこちのブログを見てみても、あきらかにブロガー本人の言葉なのは2、3行で、あとはえんえんニュース記事や他のサイトからのコピーというのが少なくない。これなど、「直筆文化」では起こりえなかった現象であろう。

最後に、これが実は一番由々しき事態ではないか、と考えているのだが、今では小説家などもその多くがワープロを使っているようだから、いずれ、「○○先生の直筆原稿」といったものもこの世から消え、たとえば芥川や漱石、太宰に三島といった文豪の原稿が文学資料館などにうやうやしく飾られるようなことが、これからは、ほぼなくなるということだ。昔の作家の直筆原稿などは、どうやって本人が文章を推敲していったかを知る手がかりにもなり、それを研究する者にとってはかなり興味深いものだと思う。また、筆跡というものは、それを書いた人間の気質、性格がかなり反映されるものであり、そこから、「ああ、○○という作家は、ずいぶん大胆なことを書いていたが、この繊細な筆跡から判断すると、実は小心者だったのかも知れない」などと想像をたくましくすることができるのである。
先日、民俗学者・宮本常一の生誕百年を記念した展覧会に出かけてみたのだが、彼の直筆原稿や書簡が多数展示されており、その丸っこい、人なつこそうな字から彼の人間性のいくらかをかいま見た思いがしたものである。しかし今や、小説書きもビジネスマンと同様、メールで出版社に原稿を送る、万事が合理化の時代である。もはや「筆跡から作家を読み解く」などと言った考古学的な鑑賞態度は、現代の文学には似つかわしくないらしい。もっとも、今発表されている有象無象の小説モドキが、何十年か先に後世の人たちの研究対象となることなどまずあるまいから、直筆でないことを嘆くなど、それこそ余計な心配かも知れないが。


 宮本常一の足跡@府中市郷土の森博物館


人間が口から発する言葉はその瞬間に空中に霧散し消えてなくなる。キーボードによる言葉は、打った本人でさえ、自分がそれを打ったという意識がどこか乏しい。自らがペンなり筆なりで書き記した言葉こそが、まさに自分の体から直接産み落とされたものであり、言霊というにふさわしいのではないか、などと、キーボードを打ちながら思ったりするのである(ホントに今月は忸怩たる思いばかりだ)。
(2007/08/01)

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