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絵葉書という風流 (10月)


今年の夏、長野の山荘に避暑に行っていた時のこと。家人が、「山からの便りをしたためたいのだけれど、絵葉書がどこにも売っていなくて」という。そんなはずはないだろうと、おみやげ屋を何軒か回ってみたが、果たしてどこにも売っていない。東京に帰る際、長野駅前の、善光寺の参道入り口にある大きなおみやげ屋で、やっと北信濃全体を網羅した絵葉書のセットを見つけたが、それもかなり前の物らしく、薄汚れて退色が進んでいた。とりあえずそれを購入したのだが、その際店の人に聞くと、もはや絵葉書というものはほとんど需要がないらしく、新しい製品はもう何年も出ていないということであった。これは多分信州だけのことではなく、全国規模の傾向であろう。

携帯やインターネットの普及で、旅先から絵葉書を出すなんていう情緒的な行為はもはや過去のものになってしまったのだろうか。しかし考えてみれば観光用の絵葉書(絵といいつつ実際は写真)というのは、いわゆるお決まりの構図で撮られたものばかりである。「この写真て、まるで絵葉書みたいだねえ」というのは、通常あまりほめ言葉ではない。少しも工夫のない、ありきたりのアングルで撮られたもののことを評して言う場合が圧倒的だ。そういう観点から見れば、それこそ書き割りのような絵葉書を旅先でわざわざ買って、それを投函するより、携帯のカメラやデジカメで自分なりにその場の風景やスナップを撮って、文章を添えて相手に送る方が、よっぽど臨場感も伝わるというものであろう。出来合いの絵葉書が敬遠されるようになっても仕方がないのかも知れない。

とはいえ、携帯やデジカメで写真を撮って、それを添付メールで送るなんていう一連の行動がスムーズに出来るのはせいぜい40代までで、今の日本は少子高齢化社会なのだから、もう少しシニア層のニーズにも応える必要があるのではないか。かく言う自分も、最近は滅多に絵葉書など書いたこともないが、小学生や中学生のころまでは、気になった女の子に、さりげなく(?)思いを伝えようと、絵葉書を使った暑中見舞いを書いたことが何度かあった。そこに、「旅先の○○より」などと書くのが妙におとなっぽく、格好いいように自分では感じたものだ。地方からだと、出してから着くまでかなり時間がかかり(1週間くらい、なんていうこともあった)、下手をすると先に新学期が始まって、葉書が届く前に本人と顔を合わせてしまう、なんていうバツの悪いこともあったが、そういった時間差も、もどかしい反面、今となっては懐かしい。いずれにしても、「送信」ボタンを押せば瞬時に相手にメールが届く時代には、届くまでの「間」を楽しむ、などという風流も、理解されなくなっていくのだろう。(ああ、何か老人の愚痴のようになってしまった…)
(2006/10/01)

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