10 一億総アーティスト時代?(10月)


今回はテーマがやや深刻なので、敬体ではなく常体で記述していくことにする。

とある業界関係者から聞いた話では、今年に入ってから公開された単館系の邦画の大半が、興行的にほぼ壊滅状態だという。また、完成しているのに公開待機中という作品も多く、撮影から公開までに2年くらいの時間が経ってしまうのは珍しくないという。製作される作品数ばかり多く、受け皿になる単館の小屋が少ないから必然的に起こってくる事態なのだが、こういう構造的な不健康状態は映画業界に限ったことではないようだ。
雑誌以外の書籍が売れないという話はさんざん聞くし、音楽にしても、ミリオンセラーはほとんど出なくなっており、ヒットしてもせいぜい数万枚という。このごろはテレビドラマでさえ視聴率が取れず、ワンクール(3ヶ月)持たずに打ち切りのものが増えているのは周知の通りである。ジャンルを問わず、いわゆるソフトの供給過剰が続いているといっていいだろう。

何故そうなるのか。早い話、昔(20年くらい前までだろうか)は、作り手と受け手ははっきり違う立場にいた。少数の作り手が作品を供給し、大多数の受け手がそれを享受し、したがって産業(商売)としても成立していた。
ところが現在では、作り手と言われる人が大変な勢いで増えており、純粋な受け手が極端に減ってしまっている(ように思える)。映像業界においても、映画館にはさっぱり人が来ないのに、映像製作の学校には若い人が押しかけるし、何だかよく知らない地域の映画祭がここ数年で急に増えて、新人デビューの門だけはやたら広がっているようなのだ。
たしかに、既成の作品をただ鑑賞するだけよりも、自ら作り出す方が遥かに面白いであろう。芸術の創造は歓喜を生み出す、なんていうのはアリストテレスの時代から言われていたそうだから。創作というのは、人間が神に近づく快感、と言った人もいる。まさに造物主の喜びを、人は執筆や作曲や、あるいはファインダーをのぞくひと時に味わうのだろう。



映像製作にいそしむ若者たち。今やどこでも見かける光景だ。
(今月の表紙を撮影しに行った
岡本太郎美術館の前にもいたのには驚いた!)


個々人の生活や精神が「創作」によって豊かになるのはいいことであるが、その一方で、商品としての創作物がさっぱり売れないという現実をどう考えるべきなのだろう。私なども大きなことは言えないのだが、作り手に回った人間は、特にこのごろは、意外なほど他人の作品を観なかったりするのだ。NCWという映像の学校に通ってくる作り手志望の若い人に、「これ観た?あれ観た?」 と聞いてみても、びっくりするくらい観ていない。音楽や文学にも、多分このあたりのことは共通するのではなかろうか。

本来なら、ある程度観たり、聞いたり、読んだりすることが好きで、それが高じて、というのが当然の帰結のように思えるが、その辺のプロセスをすっ飛ばしてスタートラインに立つ人が最近特に増えているように感じる。もともとすべての創作は模倣から始まると言われるのに、彼らは、いきなりオリジナルに挑むのである。
かくて、作り手は異常増殖し、市場には薄っぺらい「オリジナル」ばかりが溢れ、しかもそれに目を止めたり耳を傾ける人はほとんどいないという惨状が生まれる。そういう意味では、作り手と受け手がほとんど重複しており、「自分のを観にきてくれたから、あなたのも観に行きましょう」という暗黙のルールで、辛うじて成立している小演劇の方が、まだしも健全と思えてくるのである(小演劇の世界は、言わばタコが自分の足を喰っているようなもので、産業としては成り立っていないが)。

演劇は、作り手と受け手が同じ空間に存在するのを前提とした、かなり限定的な表現手段なので、それもやむを得ないと思う。問題は、映像はそれとは違う、もっと汎用性の高い(広く頒布可能な)メディアのはずなのに、小演劇の公演なみの観客さえ獲得できずに終わっていく作品がかなりあるという現実である。デジタルカメラやパソコン編集ソフトの出現で、ど素人でも驚くほど簡単に映像作品らしき物を作れる時代になってしまったが(NHKの高校講座で、プレミアの使い方なんかをさくさくっと教えてるのを見ると、実に暗澹たる気持ちになる)、その反面、観客に届くところまで行かず消えていく作品が圧倒的に多い。文学や音楽の分野でも様子は似たり寄ったりのようで、このままでは世の中が作り手ばかりになり、受け手がひとりもいなくなる時代が遠からず来るのでは、と心配になる。ある作家がこの状態を、「聞きたい人がいないのに、歌いたい人ばかりがあふれるカラオケBOXのようだ」と評したが、そうなってしまえば、創作は完全なマスターベーションになり果てる。ただただ己れの快楽のために、言葉を、歌を、映像をたれ流す。優れたものと愚にもつかないものを判定する受け手はもはや存在せず、われわれはおびただしい創作物の洪水の中で、やがて溺れてしまうであろう。



ご存知アドビのプレミア。こういう大層なものを高校生が余裕で使う時代になっているとは…(絶句)


いや、それこそが真の民主化というべきなのだろうか。少数の「創作者」たちが多数の庶民に作品を「与えていた」時代こそ、封建社会の遺物というべきなのだろうか。オール作り手の時代が来れば、ソフト産業は崩壊せざるを得なくなり、作り手たちは当然それでは喰っていくことは出来ないから、バイトや副業で喰いつなぐしかなくなるだろう(まあ、今でもそういうアーティストは大勢いるが)。しかし本来、人間の内面と密着している創作活動は自由な魂の発露であるべきで、売り上げや興行収入や視聴率に一喜一憂する資本主義とは、相いれないはずのものである。そういう意味では、食い扶持を得ることと創作活動は分離されてしかるべきで、オール作り手、オールアマチュアの時代こそ、創作が本来の自由な姿を取り戻す、人類にとっては喜ぶべき時代なのかも知れない。

いずれにせよ、「撰ばれてあることの恍惚不安と、二つわれにあり」と太宰治が処女作の冒頭に引用したヴェルレエヌの言葉が、ずいぶんと懐かしく感じられてくるこの頃である。
(2003/10/31)
 

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