12 新札に思う(12月)




11月から新札の流通が始まった。千円が夏目漱石から野口英世、五千円が新渡戸稲造から樋口一葉、一万円は福沢諭吉のお色直しという顔ぶれである。
しかし、銀行に行ってお金を下ろすということをあまりしないせいか、私の手元に新札が回って来たのは意外に遅く、初めてニュー諭吉を見たのは、11月も半ば近くだった。それからは、パスネットを買ったおつりで一葉が出てきたり、スーパーのおつりに英世と漱石が入り混じるようになったりして、11月30日現在私の財布には、新札旧札が仲良く共存している。今から20年前の新札発行の時もこんな感じだったのだろうか。当時は大学生だったのだが、今以上に現金とは縁がなかったせいか、あまりはっきり思い出せない。しかし、いつの間にか、聖徳太子や伊藤博文が表舞台から消えていったのは事実であり、今回もまた、気がついてみれば、漱石や稲造はすっかりわれわれの手元から去っているのだろう。音もなく、知らぬ間に世代交代が完了しているというわけだ。ちなみに、日銀では今回の旧札の完全回収には2年かかると予測しているらしい(前回は約1年ですんだが、今回は不況のあおりでタンス預金者が増えているため、そういう人が旧札を手放すのに時間がかかるであろうとのこと)。


 現在の財布の中身。新札と旧札が共存中


「いつの間にかすっかり入れ替わっている」というのは何だか不思議な気もするが、これは何も通貨に限ったことではない。人間だってそうだ。百年もすれば、この地上にいる人間はほぼ総入れ替わりである。一度にガバッと入れ替わるわけではないから気がつかないだけだ。もちろん人間だけではなく、生き物全部がそうだし、生活に目を向けてみれば、家具や調度品、冷蔵庫の中の食品や手元の雑誌に至るまで、すべてがそういう循環でもって成り立っているのである。そう考えてみれば何も不思議なことはない。

町もそうだ。古い建物が壊され、新しい建物が代わりに建つ。しばらくすると、また壊す。最近私の住む町は、駅周辺の再開発事業が急ピッチで進んでいるせいで、特に建物の新旧交替が目覚しい。しかし建物の解体と建築はかなりの騒音と振動を伴うので、音もなくいつの間にか、とはいかないのが難点だ。しかも、生物などの自然な世代交代とはどうも質が違うように思えてならない。今から二十年前くらいに考えて、何か作品のモノローグに使おうと思っているフレーズがある。それは、

「町はいつでも、どこかで工事をしている。
あっちで道路を堀り返していたり、そっちで駅を直していたり
こっちで家を壊してると思えば、隣ではビルを建てていたり。
一体、すべての工事が完了して、町がすっかり完成された姿を見せる日が
いつかは来るんだろうか?」


というものだ。結論から言うと、そんな日は永遠に来ません。もし来たら、土建業者やゼネコンは商売が成り立たなくなるから。つまり、町で日々見かける、さして必然性があるとも思えない工事の大多数は、建築業者たちの食い扶持のために行なわれているのであり、これは田中角栄以来のゼネコン立国日本の悪弊というか、呪わしき資本主義のなせる技としか思えない。世代交代が自然の循環としてなされるのなら問題はないが、再開発事業に物を言わせ、まだまだ使え、それなりに味わいもある建築物をどんどん壊し、代わりにもっと安っぽい、そしてまた二十年もすればぶち壊すような粗悪建築物をぶち建てる神経というか短絡的発想は目に余るものがある。特に現在、私の居住する町がそういう愚を日々繰り返しているように見えるので、つい物言いが過激になるのかも知れないが。

まあ、そういう、作っては壊し、というサイクルを繰り返していかなければ成り立たないのが資本主義という奴で、常に消費者は新しい商品を買わされる宿命なのである。したがって、古いものをいつまでも大事に、という考え方はどうしたって資本主義とは相容れないのだ。今日(11/30)の新聞を見て心底げんなりしたのが、新しいDVDの規格でまた2つの陣営が争いを…という記事だ。私は今月、やっとハードディスク内蔵のDVDレコーダーを買ったばかりなのに、もう次の規格ですか? ほんと、勘弁して欲しいもんである。完全に、消費者なんか置いてけぼり。次々に新しい規格を作り、次々に新製品に買い換えてもらう。メーカーってのはそれ以外には何も考えていないのだろうか。


 やっと買ったと思ったら、もう新規格??


愚痴というより怒りモードになってきたので少し抑えよう。といいつつ、12月10日までネット公開している「39−19」でも、主人公の一人が観光地で味の落ちたそばをすすりながら、「客が来ないと平気で手抜きをするのは資本主義の悪弊だ」なんて言っているから、私のアンチ資本主義は数年前から顕著になっているようだ。といいつつ、現代では社会主義はもう否定されてしまっているし、共産主義も死に体だし、何をよりどころに生きていけばいいのかと聞かれても、容易に答えは出そうにない。ただ、アメリカ仕込みの資本主義はあきらかに行き詰まっており、そこからはもう何も生まれない、というのは割と確信を持って言えることだと思う。

そんなに資本主義がいやなら、お前は金を使わずに暮らせ!とか言われそうで、そうなると生きる道は自給自足しかなくなってしまうのだが、そういう生活への恒常的な憧れというのは実はあって、だから武者小路実篤の「新しき村」運動なんかには多大な共感を覚えるのだ(しかしこれとて早々に挫折している)。その辺のことはおいおい考えるとして、最近読んだ「オニババ化する女たち」(三砂ちづる著・光文社新書)という本の中に、興味深い一節があった。
筆者によると、昔は適齢期の娘を持つ親は、尻を叩いてでも結婚させたものだが、今の親は、「仕事が大事なら無理して結婚しなくてもいいよ」などと変に寛大(?)な態度を取り、その結果現在のような深刻な晩婚少子化社会を招いた。仕事があれば結婚しなくていいというのは、親しい異性関係などなくても、仕事してお金を稼いでいれば生きていける、と言っているのと同じで、お金と引き換えに、出産・子育てという人生の中でも一番尊いことを犠牲にしてきたのは、個人としても国としても大変な損失であるというのだが、まったく正論だと思う。どうしてこうも現代は、金を稼ぐということが、生きるための至上命題に成り果ててしまったのか。

話は大きくそれたかに見えて、冒頭の新札発行にやっと戻る。旧札の手になじんだ感触と、新札の、パリパリした海苔のような、二枚重なっていてもわからない、どこかまだよそよそしい感触。いずれ新札は旧札と入れ替わり、手にもなじんでいくことだろう。しかし、それはつまるところ国立印刷局という印刷所で刷られている紙片に過ぎないのであり、それに人生を吸い取られるような生き方は、どう考えても尋常でないと思う。新札発行をきっかけに、ひとりひとりが自らと通貨との関係について再考してみるべきではないだろうか。
(2004/12/01)


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