10 日本には「二季」しかない?(10月)
   〜異常気象とデジタル化〜


今年の夏は、今さら言葉にするのも忌まわしい猛暑で、東京では9月の最終日、ついに観測史上最多の真夏日70日を記録した。そしてこの数字もまたどんどん更新されていくのかと思うと心底げんなりする。このごろ強く思うのは、気象が本当に極端になったなあ、ということである。6月から9月に至るまで、晴れていれば30度を越すのはザラ、体温並みの気温も珍しくなく、その上、台風も次々上陸し、バケツをひっくり返したような集中豪雨で、各地に被害をもたらす。とにかく、晴れて猛暑か、さもなければドシャ降りか、といったような状況で、中間がなく、どうにもヒステリックなのである。本来なら今ごろは本格的な秋到来で、カラッと晴れて湿度の低い秋晴れが続いていいはずなのに、台風の余波か、いまだ太陽は肌を刺すように暑く、むしむしして、実にしのぎにくい。ここ数年特に感じるのだが、春や秋といった中間的な季節のさわやかさを体感できる日が、ほとんどなくなってきているように思う。
日本は現在急速に亜熱帯化しており、そのうち雨季と乾季の2つだけになってしまうのでは、という見解もあるようだが、その兆候はすでに顕著に見受けられる。あの劇団四季の少し前のキャッチコピーに「日本には四季がある」というのがあった。言うまでもなく、この国には春夏秋冬がある、という意味に合わせ、日本には「四季」という(素晴らしい?)劇団があるんだぞ、という自負を感じさせる名コピーなのだが、この調子でいくと、このコピーも、そして劇団名も変更を余儀なくされるのでは、と心配になってしまう(「劇団二季」じゃあねえ…)。それは余談としても、このまま日本の季節が、馬鹿みたいに暑い夏と、そこそこ寒い冬の2つだけになってしまうと、当然いろいろなものに影響を及ぼすことになるだろう。
学生時代に読んだ本に和辻哲郎の「風土」というのがある。気候風土がいかにそこに暮らす人たちの生活、気質、文化などに影響を与えるかをエリア別に考察した名著で、細かい内容は忘れてしまったが、なるほどと思うところが多々あった。そこから察するに、日本の高温多湿で四季がはっきり分かれた気候は、日本人の、悪くいえば陰湿で消極的、よくいえば繊細で慎ましい民族性の形成に大いに貢献したように思うし、多くのすぐれた文学、美術、謡曲などもそれによって育まれたといっていいだろう。「もののあはれ」といい「恥の文化」という、これらは、恐らくこの国の気候風土とは切り離して論ずることが難しい民族的特質のように思われる。
それが、四季が失われ、「二季」になることで何がどう変わるのか。すべてを気候のせいにするわけではないが、昨今のヒステリックな政治、経済、社会情勢、それらにからむ一連の短絡的な首相の言動、やたらと刺激が強い映像、音楽、文学の流行、簡単に切れる若者(や中年、最近は老年も)の激増、すぐに白黒のどちらかに決めたがる世論…、といった、多様性を認めず極端から極端に流れる社会の風潮は、このごろの暴力的な気象と妙にマッチしているように見えてならない。少なくとも、以前に比べ、この国から多様性や「しなやかさ」「柔らかさ」が失われつつあるのを強く感じるのである。


 涼しさ演出のための写真です


しかし、白か黒かの二者択一的思考は、何も日本にのみ顕著な現象ではないのかも知れない。白と黒を「0」と「1」に置き換えれば、デジタル的思考ということになり、それは今日、パソコンと暮らすわれわれにはまさにおなじみの発想法となっているからだ。コンピューターがすべてのデータを0と1に変換して処理していることはもはや常識である。このホームページに書かれている文章も、写真も、動画も、ページのレイアウトにしても、すべて、解析してみれば無数の0と1の組み合わせの集合体である。PCに限らず、CDやカメラ、ビデオ、もちろん携帯にしても、すべて情報はデジタル化されて処理されている。そういう環境の中で、われわれは日常的無意識的に、自分たちの生活の中のさまざまなものを、0と1のふたつに単純選別するようになってきているのかも知れない。たとえば、デジタルカメラは、気にいらない写真はすぐに消去できるし、メールも同じである。これが実際の写真や手紙なら、破ったり捨てるのは躊躇するところだが、データだと思えば何ら気がとがめるところはない。デリート(Delete)ボタンを押せば終わりである。メールでしか知らない人との約束は破っても後ろめたさはないというのも同じ理由だろう。余談だが、このごろでは子供番組でも、悪者を倒す時にヒーローが「デリート!」と言ったりする(「デカレンジャー」の話)。「おいおい、敵はデータなのか?」とあのクールさにはちょっとドキッとするが、もはやそういう感覚なのである。
先日ヤボ用があって区役所の市民相談を受けに行った。その時かなり待たされたので、書棚にあった「誰にでもできる和解の仕方」みたいな本を手に取ったのだが、それによると、裁判は白か黒かの決着をつけるだけなのでデジタル的、一方、和解というのは双方の歩み寄りで解決に導くので0か1か(すべてか無か)ということはなく、多様性に富み、きわめてアナログ的だと書かれていた。しかし、今日のデジタル的発想に慣らされているわれわれは、自分と相手との関係をひとつひとつ考え、それに応じた対処をする、というアナログ的、個別的な発想が、いつの間にか乏しくなってきているのかも知れない。


 私もこのPCでずいぶんデリートを…


先月15日、自立支援施設に送られることが決まった長崎同級生殺害事件の小6女児は、その内面について、「怒りなどの不快感情について、回避するか、相手を攻撃するかという両極端な対処行動しか取れなかった」と家裁から指摘されていたが、そういった二者択一的判断は、現代人の大半にも共通していることなのでは?と新聞を読んで考えてしまった。回避でも、攻撃でもない、第三の選択、それは、状況を見つめた上での忍耐、あるいは相手との話し合い(まさに「和解」)なのだろうが、今のわれわれに、果たしてそういう冷静な行動を選択できる人間がどれだけいるか、実に心もとない。電車の中で足を踏まれただけでキレる大人が増えているように、余裕のある解決、多様性のある判断というものがどんどんできにくい時代になっているようだ。それが果たして、極端すぎる気候のせいなのか、はたまた、急速に進んだデジタル的世界の賜物なのか…。暑さも少しやわらいだ今、まさに冷静に考えてみるべき問題であると思う。
(何か今月は新聞のコラムみたいになっちゃいました。ご時世なんでしょうか)
(2004/10/01)


コラムと旅行記へ
TOPページへ