08 四十にして大いに惑う(8月)


今月は東北ミステリーツアーで全エネルギーを使い果たしたので、備忘録は簡単にいきます。最近少し気になっていることについて。

不惑の年というのをご存知でしょうか。孔子の言った「四十にして惑わず」から来た言葉で、文字どおりに読めば、「四十歳にもなれば、人生戸惑うことははない」という意味です。まあ、孔子に言われるまでもなく、四十歳というのは人生八十年としてもちょうど折り返し地点で、どこから見ても青年というよりは中年なのですが、自分としてはまだまだその自覚がなく、というより、ひょっとすると若い時なんかより戸惑うことが多いんじゃないかと考え、途方に暮れる毎日です。

個人的に回想してみると、大学を卒業したあとも二十代の時はまだまだ学生気分でモラトリアムに浸っており(われわれの世代の流行語でしたねえ。モラトリアム人間とかピーターパンシンドロームとか。その当時からオトナになれない世代としての予兆はあったのかも知れません)、三十代になるころにはさすがにこのままではいかん、と奮起して、かなり気張って作品も撮ったのですが、そこからまた十年が過ぎ、思ったほどの成果もあがらず、果たしてこのあとどうしたものか、と考えることが多くなってきました。

これは、男にもあるという更年期がそうさせるのか、それとも、もっと個人的な気質によるのかわかりませんが、四十歳という人生の折り返し点は、若者というほどには若くもない、したがって体力任せの無茶はできないけれど、かといって老年というにはまだ生臭く、「人生も残り少ないんだから好き勝手させてくれ!」と開き直ることもできない、実に中途半端な、どっちつかずの時期なのではないでしょうか。加えて、多少なりともこれまでのキャリアや信用があったりすると、それを失いたくないばかりに、あまり冒険ができなくなる。作家なんかの場合でいうと、「この人の作品は昔の方がよかったね」などと言われるのが怖くて、ひらめきで作品を作るのに躊躇してしまう…。

この辺の感覚は、実際にその年齢になってみないとわからないことだし、また、なったとしても、四十代が等しくそういった「停滞」を実感しているわけでもないので、理解してもらうのが難しいと思うのですが、あえてたとえ話をするなら、長い遠泳の、ちょうど中間くらい、といえばいいのでしょうか。後ろを振り返ると、ずいぶん遠くに、スタートした岸がかすんで見える。前を見れば、やはり同じくらいの遠いところに、かすかにゴールらしき反対側の岸が見える。引き返すにも、先に行くにも、どっちの岸も同じくらい遠く、一番疲れが出て、休憩したい時期なのに、どこにも休む場所がない…。


 ↑などと恐山で考えてました


中年の自殺が多いという理由も、こう考えると納得が行きます。でも、実際には老年の自殺も最近多いし、いちがいに決めつけはできないような…(苦笑)。いずれにせよ、遠泳と違って後戻りできない以上、どうにかして先に進むしかないのですが、まだまだ当分、戸惑いは続きそうです。

余談ながら、現在取っている新聞の夕刊に、やなせたかし氏(アンパンマンの原作者)の自伝が連載されているのですが、彼は六十代の後半にやっと売れ始め、84歳になった現在も、実に生き生きと活動を続けています。ただ最近少し悪ノリが過ぎるようで、里中満智子氏と「なんちゃって結婚式」をやったり、膵臓炎で手術をした後の退院パーティーでは、自ら手術台で切られて消失、復活(?)するというマジックショーをやったり、コンサートを開いて奇妙な格好で歌を披露したりと、まさにやりたい放題のようですが、さすがに八十代半ばともなると誰もその暴走をとがめる人がいません。まあ、長く生きた者の特権とでも言えばいいのでしょうが、その境地に達するには、まだまだ道が険しいなあ、とため息ばかりがこぼれる夏の午後です。
(2004/08/01)


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