06 仕事にするなら「好きなこと」?(6月)
   〜または、女優は惚れて撮るべきか?〜



「13歳のハローワーク」(幻冬舎)という本が売れているらしい。発売わずか半年で100万部を突破したと午後のワイドショーで言っていた。企画の勝利というか、あい変わらずあの作家は商売がうまいなあ、と感心してしまう。いろんな職業を中学生向けに紹介するというものだが、意外にもオトナに受けているという。キャッチコピーは、「好きで好きでしょうがないことを職業として考えてみませんか?」というのだが、まあ、その言葉が多分、まだ好きなことがフィックスできない子供よりも、好きなことを仕事にできなかったオトナの琴線に触れたのだろう。
それはそうと、「好きなことを仕事にしてしまうこと」の是非をめぐる議論というのは昔からあって、「本当に好きな人とは結婚しない方がいい」なんていうのと同じで、必ず賛否両論分かれる。そのワイドショーでも、実際のハローワークに来てる人にインタビューをしていたが、それなりの年齢の親父は、「好きなだけで仕事は続けていけない」とか「仕事でがんばって稼いで、その金で好きなことをするのがいいんだ」などと「好き」と「仕事」の分離を支持していたのに対し、四十代の女性などは、「もっと早くこういう本を読んでいたら人生変わっていた」などと、両者の合一を理想と考えているようだった。このあたりにも昨今の勤労意識の変化が見てとれるが、実際、どっちがいいのかは大変に難しい問題である。
こういう話の流れでいくと、映像製作なんていう趣味の極致みたいなことをやって曲がりなりにも生活できてる自分なんかは、まさに「好きなことを職業にした幸福な部類」と思われそうだが、実際はそれほど単純なものでもない。しかし今回は、それの是非を問うのとは微妙に違う話を展開していきたいと思う。

それは、映画でもビデオでも写真でも、とにかく対象にカメラを向けて作品を撮る場合、「その対象に惚れて撮るべきか?」という問題である。まあ、さっき書いた「好きなことを仕事にするか」に通じるテーマといっていいだろう。対象がものから人に変わっただけである。
一番具体的な例は、言うまでもなく「監督あるいはカメラマンは、俳優あるいはモデルに惚れて撮るべきか?」というものだが、結論から言うと、自分の場合、ヒロインをやる女優さんに思い入れてしまうと、きわめて残念なことに、駄作になる可能性が高い。多分、情が入ることで客観性が保てなくなって、どんな表情でも綺麗に見えてきたり、どんな芝居でも素晴らしい演技に思えてきてしまうせいだろう。それから、惚れた弱みというか、現場で厳しいことが言えなくなり、ダメ出しなんかどうしても控え目になってしまう。さらに、撮影が終わった後の編集においても、思い入れがあるため、必要のないシーンでもばっさりカットすることができず、だらだら残してしまう。こうして現場でも、仕上げでも、はなはだしまりのない作品になってしまうというわけである。

それほど好みでない女優さんの場合だと、これとはまったく逆で、冷静に観察するから表情や演技のよしあしもわかるし、それに対するダメ出しも的確に行なえ、編集の際も無駄なシーンは容赦なくカットできる。作品を客観的に概観できるため、全体のバランスがよく仕上がるのだろう。私の作品の中でも比較的評価の安定しているのは、ほとんどが女優さんと和気あいあいでなかったものばかりである。そういう意味では、監督と女優なんていうのは仲が悪いくらいでちょうどいいってことになるが、しかし世の中には監督と女優のカップルとか夫婦ってのも多いしなあ。あの辺はどういうことになってるのか、教えてほしいもんである(なお、女性監督、女性カメラマンの場合は、男優や男性モデルに惚れて撮ってるのかどうか、という問題になってくるが、自分は男なのでこの辺の心理についてはコメントできない)。


 たとえばこの作品なんかはどっちカナカナ?


実はその辺の問題を最初に意識したのはかなり歴史が古く、今から17年くらい前にさかのぼる。そのころ私はまだ大学生で、8ミリで学園祭用に映画を作っていたのだが、それをある時、若干23歳で劇場用デビューした、新人類世代(この言い方が80年代!)の若手映画監督A氏に見てもらうチャンスがあった。彼は当時、自主映画青年の間では、ちょっとしたカリスマ的存在で、「女の子にラブレターを書くように8ミリ映画を撮る」というプライベートな感覚が受けて、PFF入選からわずか4年で、とあるメジャー作品の監督に大抜擢されたのであった。私が知り合ったころはもうすでに劇場用作品を3本撮っていたA氏だったが、忙しい中こちらがビデオテープで送った作品をきちんと4本も見てくれ、後日その感想を聞かせてくれた。その中で彼が一番いいとほめてくれたのは、ヒロインを演じた女の子との関係がかなりぎくしゃくして現場的に苦労した作品で、逆に、ヒロインに思い入れてじっくり撮った自信作の方は、かなり無理がある、と厳しい評価だった。私が正直に2つの作品のヒロインへの気持ちを話すとA氏は、
「そうなんだよ。ホントに好きでカメラを回しちゃうと、カメラ越しにずーっと見つめちゃうだろ。だからダメなんだ」
と言ったのである。
それは私にはとても意外な言葉だった。彼は文字どおり、「好きで、見つめてしまう愛しい気持ち」をそのまま作品にしているとあちこちで語っていたからである。しかし、彼に言わせると、「それは作戦だった」のだという。
A氏は、その当時若者に大人気だった大場久美子がCFに出ていたオリンパスOM-10のキャッチコピー、
「キミが好きだというかわりに、僕はシャッターを押した」
の映画版を目指したのだという。たしかにあのころは、
「デートに誘う勇気はないけど、モデルになって下さい、なら何とか言えるかも」
などという不純な動機で、内気な男たちが口説きの道具としてカメラを持ち始めた時代だったと思う。


 1979年当時のポスター。左上に例のコピーが…


「写真でそういうことをやってる奴はもういっぱいいる。でも、自主映画の世界は難しい理屈やスタイル先行で、そういう作品がなかった。だから、自分がやってみた」
というのがその時のA氏の言葉である。
「じゃあ、いろんな女の子を使って作品を撮ってますけど、ホントに惚れて撮ってるわけじゃないんですか?」
私は納得がいかず聞き返した。それに対して彼が口にしたひとことが忘れられない。
ホントに好きになったら撮れないよ。作品にもならない。そこらへんのことを勘違いしてる奴が多すぎる。だから、僕の真似をした作品はいっぱいあるけど、どれもダメなんだ」
つまりA氏は、「女の子にラブレターを書くように撮っている」ように見せかけた作品を撮っていただけだというのだ。見る方は、見事にその戦略にはまったということなのだろう。たしかに、A監督の世界というのは、そのあとにさまざまな「美少女系」の亜流を生み出したものの、本家をしのぐものは現れていないと言っていい。なるほど、やはりヒロイン(=被写体)と撮り手の間には、情が介在してはダメなのか、ある種の距離感、客観性が保たれなくては作品として輝きを保つことは難しいのか、と痛感したのであった。A氏はその後も、その当時と同じ、十代の少女に焦点を当てた作品を撮り続け、「少女を撮らせたらA監督」と言われ現在に至っている。これも当時彼が描いた作戦通りということだろうか。

そういう回想をふまえると、やっぱり、監督は女優に惚れたらいかん、ということになってしまうのだが、この話には少しおまけがある。なぜ、その監督の名前がA氏なのか、どうして実名じゃないのか、ということなのだが、実は彼はごく最近、とある児童買春事件の容疑をかけられ、現在拘留中なのである。司法でどういう決着がつくのかわからないが、とにかく法に触れる年齢の女性とそういう関係を持ったのだという。しかもご丁寧にビデオまで撮っていたらしい。彼はその辺の事実を認め、「罪になることはわかっていたが、欲求に負けた」と話しているそうだから、そうなると、やっぱりホントに十代の女の子が好きだったということなのか。「惚れて撮ってはダメ」という戒めを私の心に残した人だけに、この事件を知った時はかなり複雑な気持ちになった。彼の「言葉」ではなく、その「行動」から察すれば、やっぱり監督は女優(被写体)に惚れて撮るのが正しいかたちなんだろうか、そして、冒頭の話に戻るけれど、やっぱり仕事も「好きで好きでしょうがないこと」を選ぶべきなんだろうか。うーん…。
(2004/05/21)

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