02 今日の我慢が明日の幸福?(2月)


早いもので、PCを買い換え、サイトを自分で作り始めてそろそろ一年になります。今回は、ほぼ1周年記念ということで、サイト運営にまつわるあれこれを書こうかと思ったのですが、それよりもっと考察すべきことが出てきたので、ちょっとそれについて触れたいと思います。
それは、「人は明日の幸福のために、今日を犠牲にすべきなのか?」ということです。まあ、多かれ少なかれ世の中に生きている人は考えるであろうことだと思いますが。数年前から、私もそれについて漠然と考えています。もちろん、はっきりした結論は出ていませんし、人それぞれ、答えは違うのでしょうが。

日本人は、わりとガマン強い民族のようで、明日の成果を得るために、あるいは他人からの評価を受けるために、身を粉にして、今日の楽しみを犠牲にして働いてきたように思います。多分、私なんかも、映像製作の過程を振り返って、リアルタイムで楽しいと思った思い出がほとんどないところをみると、明日の幸せと引き換えに、今日の幸せをドブに捨ててきてしまったタイプなのでしょう。今回巻頭のインタビューに登場してくれた門脇くんなんかにしても、自分の作りたいものを作るには、ビッグになるしかない、みたいな発想があるようですし、やはり先月に会って話しをした作家兼精神科医の知人も同じようなことを言っていました。「本当に書きたいものを書くためには、まず世の中に自分の存在を認知させなくてはならない、そのためには不本意な編集者の注文にも耳を傾けなければならない」のだそうです。私も、多分数年前なら、彼らの意見になるほどと頷いたかも知れません。

でも、このごろ、本当にそれでいいんだろうか、ということをしばしば考えます。本当にやりたいことが来る日まで、本音を押し隠してちぢこまって生きるというのが、どうにも理不尽に思えてくるのです。
しばらく前に、ある整体師の方が書いた本を読んだのですが、それによると、人間の快感には2通りあって、ひとつは骨盤上部の緩みによるもの、もうひとつは骨盤底部の緩みによるものだそうです。骨盤底部の快感(タイプ1)というのは、最初にある種の緊張・収縮があり、そこから解放されることで起きる気持ちのよさです。すなわち、イヤなことでも我慢して粘り強く最後までやり、どうにかいい結果が出せた、関係者や世間からも評価されてよかったよかった、という、先ほど例にあげた、「明日のために…」的な快感とでもいいましょうか。映画に限らず、ものを作るなんてのはまさにこれですよね。禁止と抑圧が前提として存在するという意味で、フロイトの提唱する「肛門期リビドー」的なものだそうです。たしかに、排泄を我慢して我慢して、その後一気に放出するというのは、かなり強烈な快感ではあります(男性の射精も同じ)。ドラマでいうと、クライマックスからカタルシスに至る瞬間みたいなものでしょう。一方、骨盤上部の緩みがもたらす快感(タイプ2)というのは、キスとか甘いものを食べるとかいう、フロイト的にいうと「口唇期リビドー」に基づく行為で、これは緊張のあとの弛緩といった条件づけのない終わりなき快感、「今ここにある」快感だそうです。別に甘いものを食べなくても、人間が本当に好きなこと、楽しいことをやっている時は自然にここが緩んでいるらしいのです。タイプ1を相対的快感と位置づけるなら、タイプ2は絶対的快感と呼ぶにふさわしいでしょう。

さて、こういう2つの快感があるとして、何が問題かといえば、タイプ1のような、快感を先延ばしにすることばかり続けると、骨盤底部そのものが収縮して、緩まなくなってしまうそうです。適度に緊張・収縮して、その後適度に解放・弛緩する、というサイクルが繰り返されればいいのですが、何分、社会や他人の評価(たとえば、褒められるとか、有名になるとか、作品が売れるとか)というのはうつろいやすく、不確実なものであり、努力したからといって必ずしもいい結果が出るとは限りません。私的な例を出して説明すると、「火星のわが家」という映画は「カナカナ」という映画の3倍近い製作費をかけて作りましたが、お客さんの数は3倍というわけには行かず、予定していたように資金を回収することができませんでした。予想を裏切る理不尽な結果に、当時は怒りと絶望を感じましたが、こればかりはどうにもしようがありません。ですから、こういう自分では制御できないものに一喜一憂しているとフラストレーションばかりたまって、しまいには燃え尽き症候群みたいになってしまうというのです。この本の筆者は、人間に生来備わった骨盤上部の快感、すなわち、内側からみなぎってくる快感の方がより確実であり、力強いものであると言います。変わりやすい他人の評価や不確実な将来の結果ばかりを追い求めず、ありのままの自分を自分として認め、現在の充足、「今日の幸福」をよりどころとして生きていくべきじゃないか、というのは、至極もっともな主張だと思います。しかし、人間は不幸にも大脳が発達して、なまじっかな知恵を持って進化してしまったばかりに、世間や他人の評価といったものはどうしたって気になるし、また、社会と接点を持たずに生きていくこと自体困難になっているのが現実です。また戦後の日本は、偏差値教育を強力に推し進めた結果、「自分が本当にやりたいこと」がわからない不自由人を大量生産してしまい、他人の評価や成績、査定といった数値化されたものにしか情熱を傾けられなくなっているように思えます。そんなわれわれに、「今日の幸福」など、本当に見つけられるのでしょうか。

しかし、それを実践している人がいないわけではありません。先ほど話に出した「火星のわが家」のヒロインの鈴木重子さんは、中学高校と成績のよい優等生で、親や周囲の期待に応えようと、東大の法学部に入り、司法試験に3度も挑みましたが、それは本人に取って苦痛でしかなく、どんどん引きこもりみたいになって、ついにリタイアしたそうです。彼女はまさに、「明日のために今日を犠牲にする生き方」を20代の半ばまでやっていたのですが、そのころ歌を習っていた先生から「自分は毎日音楽を楽しんでものすごく幸せだから、毎晩寝る前、このまま死んでもいいと思う」と言われ、衝撃を受けたといいます。そうして、鈴木さんもまたそんな生き方に自分をシフトしていくようになるのですが…。しかし、こういう「転向」は稀有なケースなのでしょう。歌うという行為はたしかに「現在の幸福」を享受できる素晴らしい表現手段ですが、それで生計を立てるとなると、誰にでも出来るというわけではありませんから…。

一体、ひとりの人間が、自分の行動を顧みて、純粋に自分がそれをやりたいから、という理由だけでやってることなんて本当にあるのでしょうか。たいていは世間体やお金のためだったり、さもなければ家族や会社といった組織のしがらみによるものだったりするのではないでしょうか。一見自由に見える、創作方面の仕事についている人種にしたって、自分の現わしたいものと世間のニーズとの間で苦しみつつ、何とかバランスを取りながら辛うじて生きているのであり、こう考えると、いやはや、人間の一生ってのはずいぶんしんどいものだなあ、というのが最近の率直な思いです。いまだ見ぬ明日の幸福にだけ力点を置く生き方は、そろそろご破算にしたいと思いつつ、それでもいまだ見えぬ世間の評価や対面から逃れることができない、それが社会的存在としてこの世に生を受けた人間の宿命なのでしょうか。
(2004/02/02)

参考文献 : 「整体 楽になる技術」(片山洋次郎著・ちくま新書・2001)


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