10 名前を変えるな!(10月)





平成の大合併とかで、市町村の合併が急速に進んでいる。ふらりと訪ねてみると、前に来た時とは違う名前になっていることが多い。山梨県の石和町笛吹市に生まれ変わり、長野県の戸隠村長野市に併合、つい先日りんご農園を見学させてもらった牟礼村も、今日(10/01)から三水村と合併し、新たに飯綱町が誕生した。国からの財政支援を当てにしての駆け込み合併のようだが、ひところの銀行合併と同様、どうしても昔の名前の方に愛着を感じてしまう(第一勧業銀行と富士銀行が一緒になったみずほとか、どことどこが合併したのかも忘れたりそなとか、さっぱり名前の意味が理解できないのだが)。
戸隠は昔から忍者の里として知られた土地で、やはり「戸隠村」のネーミングがしっくりくる。三水も牟礼も、何度も訪ねたこちらとしては、やはり「町」よりも「村」というにふさわしい。しかしそれは都会人の田舎へのセンチメンタルな思い込みであって、そこに住む人たちは「村」という呼び方よりも今風の「町」を好むのだろうか。それにしても、かの「さいたま市」を筆頭にあちこちで見聞きするようになったひらがなの地名、あれは何とかならないものか(かすみがうら市つがる市みなかみ町など)。ちゃんと漢字があるんだから漢字を当てたらいいじゃないか。書き取りのテストじゃないんだからさあ。第一宛名書きをしていて格好がつかない。見た目の美しさ、というのも物を選択する際のひとつの重要な基準だと思うのだが。

名前の変更と言えば最近もうひとつ気になるのが、医療関係の呼称である。まずは「精神分裂病」(いわゆる電波系。「誰かがあいつを殺せと言っている」みたいな幻覚や幻聴が生じる。昔から一般的にキ○ガイと言われているもの)。2002年8月に、日本精神神経学会のお達しで「統合失調症」に名称変更されたのだが、その理由が「精神が分裂するわけではないし、以前に比べ難病でなくなった。薬で治る病気だから」というもの。そして何より「精神分裂病」という響きは、あまりに人格否定的であるから、ということであった。
わかるようなわからないような説明だが、どうしても理解しがたい点がひとつだけある。それは「」と「」の言葉の違いである。その意味は読んで字のごとく、「病」は病気であり、したがって治療を必要とする。しかるに「症」はある種の症状、ないしは傾向であり、「病」ほどの深刻さはないから特に治療の必要はない―というのが私などが以前から認識していたイメージであった。眠れないことが続くのは「不眠症」という症状であって「不眠病」ではない。もっとくだいて言えば、「あがり症」「冷え症」「のぼせ症」なども病気ではない。それらは日常の中の状態であり、正常の範囲内である。しかしそう考えると、幻覚や妄想によって自分で自分を制御できなくなるのはやはり異常であり、もはや日常的状態の域を超えているのではないか。したがって、治療を必要とするもの=病気ととらえる方が自然ではないかと思えるのだ。名称を変更するにせよ、せめて「統合失調病」にならなかったのかとシロウトながら考える次第である。
同じことは「性病」にも言える。こちらは1999年4月に感染症新法とともに「性感染症」という名前になったらしいが、しかしそもそも「感染症」というのは細菌やウィルスなどによって人から人、あるいは獣から人に伝染する「伝染病」のはずであり、当然治療をしないと治らない。そういうものが何故「症」の名でまかり通っているのか本当に不思議でならない。
どうも現代は、患者の精神的ダメージやプライバシーに配慮してか、「病気」という言葉をなるべく使わないように使わないようにとお上や医療機関が気を回し過ぎているように思える。エイズ(性感染症の一種と規定される)や精神分裂病が病気でないというなら、一体何が病気なのかと逆に聞きたい。そのうちガンも「異常細胞増殖症」なんていう名称に変わっていくのか。だったら病気という概念そのものを見直した方がいいのではないか。

統合失調症にせよ、性感染症にせよ、現実の病態は充分シリアスであるのにも関わらず、呼び方だけソフトにすることで、あたかも大層な問題ではないかのような誤解を世間に与え、実態を見えにくくさせているように感じる。性感染症については、そういうネーミングにすることで、「病気じゃないんだからどってことないしー、ほっといても全然ヘーキ」と、若年層の無分別な性行動を増長させ、感染を拡大させる恐れがあり、また精神分裂病(統合失調症)にしても、医療機関が病気とはっきり診断した方が、本人も心して治療に取り組むという姿勢が生まれるのではないか。いずれの場合も、名称を病気から遠ざけた結果、治療に向かわず野放しにされる可能性が増し、それが感染の拡大や通り魔的犯行の増加に結びつく危険をはらんでいると思う。明らかな「病気」をひとつの「症状」であるとして妙に寛大な態度を取り続けることは欺瞞であり、かえって社会の病巣を深くしているように思えてならない。たかだか名称ということなかれ。「名は体を現わす」と言うではないか。したがって、地名にせよ銀行名にせよ病名(症名ではない)にせよ、目先だけの安易な変更は混乱を招くだけで、決して得策とは考えられないのである。
本当は、2002年3月に「看護婦」が「看護師」に名称変更されたことについても、この場でひと言いいたかったのだが、今回はひとまずこの辺で。
(2005/10/01)



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