03 待つ人、待たす人(3月)


幼少期から今に至るまで、人間関係については悩みが絶えることがないのだが、今回はその中でも最も神経にこたえる、「待たされる」ということについて少し考えてみたい。

長年不思議でならないのだが、ある人からの返事の電話なり、メールなり、手紙なり、待っていると、さっぱりリアクションがないというのはどういうことなのだろう。B型にありがちな気の短さと粘着気質のせいで特に苦痛に感じるのかも知れないが、こちらから相手に電話して「今ちょっと取り込んでるので、折り返し電話します」なんて言われると、5分後くらいにはかかってくるように思えて、それをひたすらじいっと待ってしまう。でも、そのまま半日も連絡が来ないなんていうのはざらで、その間こちらはひたすら悶々と落ち着かない時間を過ごすことになる。他のことをしようにも、その相手からの返事が気になって、それ以外のことに集中できないのだ。同じように、来ることになっているメールの返事がなかなか来ないと、ひたすらそればかりが気になってもうどうにもしようがなく、携帯ならカパカパあけて何度も何度も、PCもそれこそメーラーを何度も何度も確認しなければ気がすまない。まあ、ちょっとした神経症なのかも知れないが、性分なのだから仕方がない。結局返事の電話やメールが来るのは、私がもう待ちくたびれて、返事なんて来ても来なくてもどうでもいいや、となかば諦めかけた時くらいである。そのあたりのタイムラグを、ここ数ヶ月だけで何十回経験してきたことか。
だから、返事というものにルーズな人と関係を持つことは、私にとっては致命的に苦痛なのだということをこの場を借りて明言しておきたい(誰に言ってるのだ?)。逆に、レスポンスが早い人は、早いというただそれだけの理由で、その人との関係は継続に値すると思ってしまうくらいだ(もっというと、レスの早い人というのは、それ以外にも信頼するに足りる長所を複数備えている場合が多い。一方、返事にルーズな人間というのは人生に対する根本的な態度においても問題があるように見受けられる)。


 あまり待たされたので靴も壊れました(ウソ)


一体、人は人を待たせている時に、どれほどそれを自覚しているのかというとこれがはなはだ怪しいもので、待ち合わせにしろ、先ほどの電話やメールにしろ、ほとんど罪悪感を持たない場合が多いのではないか。となると、まさに待たされる者の一人相撲、待たされ損である。太宰の「走れメロス」には「待つ身が辛いか、待たせる身が辛いか」なんていう一節が出てくるが、あんなのは待たせる側の自分勝手な言い訳で、よっぽどデリカシーのある人間でもない限り、待たせることで心の痛手を負うとは思えない。第一、待たせる側は、だいたいあと何分で目的の場所に着く、とか、あとどれくらいでメールを打てる、などとわかって行動しているが、待たされる側には、そんなことはさっぱりわからないのだ。そういう意味では待ち合わせで遅れる時、最近は携帯メールなどで「あと○分遅れる」と連絡できるようになったのは文明の進歩というに値するが、肝心の電話やメールについては、あと何分で電話します、とかメールします、と電話やメールで知らせてくれることはあり得ないので、こちらはただひたすら、いつ果てるともなくじりじりじりじりと待つしかないのだ。
ああ、なんか書いててエキサイトしてきてるなあ。特にこのごろこういう感じでじれったい思いばかりしてきたせいか、このネタを書き出すとキーボードが止まりません(やばいぞ)。

しかし、少し頭を冷やして考えてみるに、人間というのはとかく自分本位なところがあり、加害者というのは相手に与えた被害を無意識のうちに軽く考えがちで、その一方、被害者側は、与えられた被害を、実害以上に深刻に受け止めるという傾向があると思う。いじめた方はちょっとしたじゃれ合いのつもりで悪気はなかったのに、いじめられた側は何年経ってもそれを覚えていて、あげくの果てに蓄積された恨みの感情が爆発して凶行に及ぶ、などというケースがあるが、これなど、被害者と加害者の温度差の顕著な例であろう。そこまで極端でないにせよ、人間という生き物は、その同一の人格の中でさえ、加害者と被害者の立場を実に都合よく使いわけているように思う。話を「待たせる」「待たされる」に戻すと、これだけ「待たされる」ことに対しイライラを募らせる私自身が、決して人を待たせることがないかと言えばそんなことはなく、多分それこそ自分の気づかないところで、誰かをやきもきさせている可能性は十分にあるのだ。また、「待たされる」ことばかり多いと先ほど書いたが、それも、いわゆる被害者感情の増幅という奴かも知れない。実際、去年の秋くらいにも、「あいつ、さんざん人のことを待たせやがって、全然返事もよこさないで…」とかなり憤ったケースがあったのだが、その当時の日記を今読み返してみると、待たされたといっても、実はほんの1日2日だったということがわかった。私としてはその時は、それこそたっぷり1週間は待ちぼうけを喰らったように感じていたのに…。待つ身というのは辛いゆえ、実時間の何倍にも膨れ上がって受け止められるのだろう。
ちなみに水島新司の「野球狂の詩」「鉄五郎のバラード」というのがあり(唐突すぎます? 私が水島漫画の話を出すなど。でも、この作品はリアルタイムに「マガジン」で読んでいて結構好きだった)、その作品には、岩田鉄五郎が若いころに深窓の令嬢と恋をし、駆け落ちの約束をする、でも相手がいくら待っても来ないので、振られたと思って諦めた、と回想する場面が出てくる。しかし、その相手は、実は鉄五郎と入れ違いに待ち合わせの場所に来ていたことが彼女の死後にわかる。それを知った鉄五郎は、「気が焦っていた自分は、実はそれほどでもない時間を、とても長く感じてしまったのだろう」と述懐し、彼女の葬儀に向かう…、という実に切ない話なのだが、待たされている人間のおぼつかない感情をとらえてあますところがなく、いまだに「野球狂の詩」のベストエピソードとして記憶に残っている。

「野球狂〜」とほぼ同じ時代に見たので覚えているのだが、故クリストファー・リーブの演った「スーパーマン」でも、ヒロインのマーゴット・ギターがひとり自分の部屋で、「待たされ続けの人生ね」なんてため息をつく場面がある。多分どんな人も、人生においては「待たせる」よりも「待たされる」ことが多い、と感じているのだろう。そうであるなら、せめてすぐにできる電話やメールは、迅速にすませて、相手の気持ちを少しでも軽くしたいものである。お互いの関係のためにも…。
(2005/03/01)


 
まあ炎でも見て、すこし心を鎮めるってことで…


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